
この記事では自己肯定感について述べます。どの育児書でも大事にしているものです。『子供は勝手に大きくなる』じゃあ子育て、育児て何をしているのだろう?って感じてる方に参考になれば幸いです。
自己肯定感を育てる方法に絶対的なものはなく、両親の考え、子供によって何パターンもの組み合わせがあるのだと思います。それは様々な育児書でも言っていることが異なるので、決まりはないのでしょう。
ただ、今までオトンが勉強したことを踏まえながら、2022年時点、我が子たちをみながら自己肯定感について具体的に考えていきます。
オトンの場合
子育てするにあたり、いいオジサンになった自分と子供を日々照らし合わせながら、自分は何を根っこに大きくなってきたか、というのを考えていました。
正直、若く一番いきがり、調子にのっていた時期に、母親を亡くしたオトンにとって過去の自分を客観的に伝えてくれる人はおらず、自分はどうだったがわからず何かモヤモヤしていました。父親はザ昭和の人、ほとんど仕事でたぶんオトンのことはわからない。
そんな中、何冊か育児書とやらを読んできました。すると、その根っこを適切に表現する言葉に出会いました。
【自己肯定感】
どの育児書も似たり寄ったりのことを述べてはいますが、この部分は共通していると言っても過言ではありません。
育児書によって違うのは、その自己肯定感をどのように大きく、強くしていくかという点であるように思います。“とにかく褒めろ、いや褒めすぎはよくない、褒めるのではなく認める、漠然と褒めるのではなく具体的”に、とまぁ、こんな感じ。

オトンが自分の過去を振り返るにあたち、褒められた記憶ってのはほとんどない。(母親が生きていたら怒られるかもしらんけど…)
ただ小学3年生のときの算数のテスト、図形で高得点をとった。いつものように勉強をしなかったのに。100点じゃないのに覚えている。それは、その時の担任の先生が、この子は算数が得意になるはず、ですよ、と母親の前でほめてくれたから。母親はとても嬉しそうだった。
ほめられる+母親の前で、鮮明な記憶として残っているのか、ほめられる×母親の前、なのか?約30年前の3年7組のことである。
このほめられた経験がオトンの今を作っているのなら、それだけ大きな出来事であった、ということ。
そして、このことは驚きをもたらすと同時に、もの凄く怖さも感じる。
子供たちにネガティブな言葉を言ったり蔑むことが、彼らの今後の人生にどれ程の影響を与えることになるのか?
我が家の子たち
いっちゃんの場合

いっちゃんは小さい頃からあまり運動は得意な感じではなかった。そりゃ、親からみてもわかるレベルで。
ただ、我が家が通う保育園(さくらさくらんぼ保育)は、年長さんになると、逆上がりやら跳び箱などの課題がある。
課題といってもやらなければならないこと!ではないが、みんなの前でお披露目する機会があるのだ。オトンが予想していた通り、いっちゃんが年長になったとき、逆上がりや跳び箱はいっちゃんにとって最大の難関になった。
いっちゃんの様子をみていると全くできそうにない……
悩んだ、やらす!べきか、黙ってみとくべきか。

ちなみに、斎藤保育的には子供に何かをやらす!はNGワードである。斎藤保育の内容はこちら
逆上がりができるかどうかは人生にとって、本当にどうでもいい。
昭和育ち、いっちゃんが初めての子だったオトンは悩んだ末に逆上がりの練習をやらす、に舵をきった。正確に言うと、練習するようにうながした。
本人のやる気があった、てのが大前提なんだけど。ちなみに斎藤保育的には【うながし】も大人の愚かな行動である。
本人の頑張りの結果、逆上がりなどの課題でできなかったものはなくなり、晴れて卒園していった。
そのときの心情は、やれば自分はできると自信をつけてほしかった。
ただ、親がこうすると喜ぶから、と【うながし】につきあっていた、となると切なくなる。
そんないっちゃんの今はどうか?逆上がりの経験が関係するかはわからないけど、小学生のいっちゃんは自信家だ。自分の中でやればできる、てのは刻まれていると思われる。
口うるさい親のせいで、所々、自信のなさを見せるときもあるが芯は育っており頼りになる。
ちなみに、小学生になったいっちゃんは逆上がりはできなくなった(笑)
にーくんの場合

にーくんは万能。正確にいうと、万能だと勝手にオトンが思い込んでいた。
2歳から勝手に自転車にのり3歳では自分の保育園の準備を始めた。
4歳のときに、みんなで遊んでいても6歳の子達がいるなかでも、中心人物的な存在になった。
5歳のときは年上の子達と当たり負けはするものの、対等にサッカーをするようになった。文字も教えてないのに勝手に読み書くようになった。
そんな順調すぎる成長をしてきたにーくんが6歳、年長になったとき、大スランプ。
周りに目標がないためか、何もしないでも何でもできるためか、サボることを覚えた。その間に周りの子がドンドン成長し、それがプレッシャーだったのかいろんなことに言い訳をし、頑張っている子の邪魔を始めた。
いつしか孤立し、登園したくないと言い出すようになった。
にーくんは何かを乗り越えた経験がない。そんな、にーくんは何でも人並みにはでき、時には優れていたから散々褒められてきたけど自己肯定感はどうだろうか?
なにかを苦労して乗り越える、今の時世そんな経験が必要なのか?死語【根性】てブラック企業の合い言葉ではないのか?
目には見えないもの
自己肯定感の有無でどちらにふれるか? うぬぼれ(自信過剰)、自信のなさ。
我が子達には、自信過剰のほうがいいとは思うがリスタート、再出発する力をつけてほしいと願って止まない。
若者が自信を持ってある世界に挑み、ズタボロに叩きのめされたとき、自分自身の存在意義を保つため違う道に走る、道を踏み外すつのはよくあること。、だがどうであれ、そこからリスタート、再出発してほしい。
かく言う、オトンも自己肯定感があったため、二十代半ばでやりたいことのために2回目の大学に行ったんだと思う。
イジメはその時のツラさが、取り上げられるが、実際、心のキズとして残り続ける、それに関してはは心当たりのある大人はたくさんいるはず。オトンもその一人。
今もこうして父親としての体裁を保てているのは、育てられた自己肯定感を原動力にしてリスタートができているからだろう。
まとめ
自己肯定感について私見を述べてみました。
自分自身の自己肯定感について、少し考えてみるのも面白いかもしれませんね。
何せ、育児においてはその自己肯定感をいかに育てるか、がテーマになっています。
褒めろ、漠然とほめるな、認めろ…etc、ちまたにはいろいろなことが言われています。
子供は性別、性格、環境など一人ひとり違うし、ましては自分とは別人格、こうやれば上手くいくっていうのはないと思います。
そこで気になるのは、子育て界のモンスター(失礼)佐藤ママ。
4人の子、男女関わらず日本の最難関に入れるその教育法とは、いかに。(あ、タイトルこれにしましょ) 次は佐藤流を勉強したいと思います!
兄弟が東大、兄弟が医学部医学科はいるかもしれない。ただ、兄弟全員が浜学園→灘or洛南→東大理Ⅲって。好きか嫌いかは別にして、どんだけ~~ですか。
今まで、大事にしてきたキーワード、子供たちに合わせて、という概念が吹き飛ぶような荒業。
我が家には東大理Ⅲは縁がない話だが、「子供たちに合わせて」というのが一番むずかしいと感じているオトンには、なぜ同じ結果が生み出せるのか?は気になるところです。
2022時点での自己肯定感のイメージはこんな感じ

もう少し勉強し深めたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます。ほな、おおきに~
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